「不幸な人間は自分を必要としてくれる」という母の妄想的な信念
母には「不幸な人間は自分を必要としてくれる、少なくとも自分を捨てることはない」という信念(?)があるようで、結婚もわざわざ不幸な人間(父)を選びました。
両親はお見合い結婚だったのですが、父はお見合い後に、母に自分のこれまでの人生を手紙に書いて送ったそうです。
それが、あまりにも憐れだったので、母は「この人だったら私を大切にするだろうと」思って結婚を決めたらしい。
なんか本当にあほらしい。
そもそも「ひどい人生を送ってきた=パートナーを大切にする」という考えが、ただの思い込みにすぎない。
むしろ、ひどい目に合った人間ほど、パートナーにひどいことをする確率は高いと思いますね。
母の考えは「虐待された人間は痛みを知っているから、人に親切にできる」という考えと同じくらい思い込みにすぎません。
こういう飛躍した考えを真実だと思ってしまうところが、統合失調症の怖さかもしれませんが。
虐待された人間が、子どもに虐待を連鎖させやすいことが指摘されているように、むしろ逆です逆。
実際、父は病気の母に家事・育児をすべてやらせ、家のことにはノータッチでした。
母に仕事をやめろとも言いませんでしたし、病気に気付いていても見て見ぬふり。
母は、私が失敗したり落ち込んだりしていると決まって喜んでいたので、私に不幸であってほしかったようです。
「不幸な人間は自分を必要としてくれる」という考えは母の思い込みにすぎませんが、結局それって、相手に執着しているだけだと思うんですよね。
もし相手のことを愛していれば、相手が笑顔で幸せでいてくれれば、自分もうれしいと思うんじゃないでしょうか?
でも、相手に執着しているだけだと相手の幸せはどうでもいい。
むしろ「相手が幸せになると自分を必要としてくれなくなる=自分から離れていくかもしれない」と思うようです。
自分から離れていかれると、自分が執着できる対象がなくなるので、それは困るわけです。
だから、相手が自分を必要とするためにも、相手に少しでも不幸であってほしいというのが母の考えですね。
根本にあるのは、母の病的な依存体質だと思います。
今の住所に引っ越しする前は、母からの手紙やハガキが、2日に1回のペースで約1年間届いていたこともありました。
しかも、手紙の内容も変な宗教のパンフレットを同封していたり、キリスト教のことについて延々と書かれていたりして気持ち悪かった。
母は、当時はキリスト教に依存していたようですが、人や宗教に心のよりどころを求めるより、自分の依存体質を治したほうがいいと思いますね。
他に救いを求めるだけで、自分の本当の問題と向き合わないから家族仲がうまくいかないのに、それをわかっていないみたい。
現実逃避にすぎないのですが、本人は現実逃避している自覚もない。
そもそもキリスト教を勧めてくる人って、豊臣秀吉の時代にキリスト教の宣教師によって、日本人の奴隷貿易が行われていた事実を知らないんですかね?
私はそれを知ってから、キリスト教に対する見方が100%変わりました。
そういう視点でキリスト教の教義を客観視すると、やはり教義自体が矛盾に満ちている。
信じるのは自由ですが、それを子どもに押し付けるのはやめてほしいですね。