毒親育ちのブログ

毒親に関するネタやエピソード、考察のブログです

怒りと憎しみは防衛本能なのかもしれない

怒りや憎しみの感情は、一種の自己防衛なのかもしれません。

幼い頃から母に対して強い怒りと憎しみを抱いていて、鏡で自分を見るたびに、外見の幼さと内面の感情とのギャップに驚いたものです。

なぜそれほどまでに強い憎しみを抱いていたかというと、究極的には自分を守るためだったと思います。

たとえば、理不尽な体験をした場合、怒りの感情がなければ後に残るのは「被害者の自分」ですよね。

加害者に対して怒りや恨みの感情を持たない場合、結局やられたことを精神的に受け入れて、傷ついた自分と向き合うことしかできない気がします。

私は、傷ついた自分を受け入れることはできなかったのです。

自分が被害者であるという事実を認めたくありませんでしたし、絶望した自分と向き合うこともできませんでした。

認めたら、後にはみじめな自分が残るだけじゃないですか?

母に対して殺したいほどの憎しみを抱くことで、正気を保つと同時に、傷ついた自分を見ないようにしていたのかもしれません。

 怒りと憎しみの結果

物心がつく頃から、自分の中に怒りと憎しみがあるのが当たり前になっていて、それらの感情がまるで心の土台のようになっていきました。

いつも自分の心の不安定さに振り回されていましたし、抑圧されているような感覚がありました。

表面上は普通に振舞っていましたが、内面は完全に自分を見失っていて、自分の個性や性格、希望でさえよくわからなくなっていました。

自分というものがなかったので、思いつきで行動したり物事を決めたりすることが多かったように思います。

一貫した自分というものがないので、長期的な計画は建てられませんでした。

内面的にはまったく幸せではありませんでしたね。

当時は自分の不安定さや、自分がないということには気付いてさえなかったです。

状況の変化と新たな問題

最近、母のことを思い出しても、怒りや憎しみに振り回されることが少なくなってきました。

カウンセリングやブログで、母のことをあまりにも思い出し尽くしたので、思い出しても感情が伴わなくなってきたのだと思います。

怒りや憎しみがなくなったわけではありませんが、思い出しすぎて慣れてきたのか、薄くなってきました。

母以外に対する怒りでさえ、最近では忘れていることがありました。

怒りに振り回されることが少なくなったのは良いことですが、それと比例して今までの自分に対しても客観視することが多くなりました。

自分に対して、少しずつ冷静になってきているのですが、これがしんどいですね。

母のように、自分を客観視しないで生きるほうが幸せなこともあると思います。

たとえば自分の行動や言動、選択など、そのときの自分はよかれと思って行動しているのですが、後になって振り返ると愕然とします。

学校や就職先など、人生って選択肢の連続じゃないですか?

それを今となってはどうでもいいような理由で選んでいましたし、本当に自分が希望していたものではありませんでした。

学校にしても、あの学校へ行った理由が今となってはよくわからない。

当時は自分を見失っていたので仕方ないのかもしれませんが、こうやって後で我に返ると茫然としてしまいますね。