毒親育ちのブログ

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母はなぜあんなに女を捨てられるのだろう?

母には自分が女だという意識がなかったように思います。

自分の性別はもちろんわかっているでしょうけど、完全に女を捨てていましたね。

髪型や服装、体型に至るまで、すべて女という部分を捨てていました。

食べ方1つとっても、女らしさとは無縁↓

 私が物心つくころにはすでに女を捨てていたので、もともと自分は女だという概念が薄かったのかもしれません。

人にどう見られようが関係ないといっても、人間である以上、限度というものがあるじゃないですか?

たとえば、少なくとも人間は自分が納得する髪型や服装をしていますよね。

好みの問題はありますが、少なくとも自分が気に入った髪型や服装をしているのではないでしょうか?

人間として、自分の髪型や服装をまったく気にかけないのは、ちょっと難しいと思うのです。

母は、人間としての自分の髪型や服装、体型すらどうでもいいみたい。

記憶の中の母は常に男のような髪型をしていましたし、男のような服装をして、不健康なに太っていました。

男のような服装や髪型も、とくに信念があってやっているわけでもなさそうなのです。

たとえばレズビアンの人の中には、男のような髪型を好む人がいますよね。ああいう人たちとも違います。

母に関しては、ポリシーというよりは、単純に機能性を求めているのだと思います。

女らしさ<<<<<<機能性という感じですね。

でも、普通の人はいくら機能性を求めるといっても、ある程度は自分の見た目って気にするじゃないですか?

母のまったく自分の見た目や言動を気にしない様は、私の目には異様に映りました。

たとえば、ドライブ中に母が「あ、ちびっちゃった」と尿を漏らしたことがあります。

それも、母自身はまったく恥ずかしいことだとは思っていないようなんです。

漏らしたからそう言っただけで、母にとっては「あ、字を間違えた」とか「あ、牛乳買ってこないと」というレベルとおそらく同じ程度なんですよね。

当時私は子供で、母は尿を漏らすような年齢ではなかったので、堂々と尿を漏らすのは私には理解不能でしたね。

しかも、多少漏らしたとしても、言わなければわからないじゃないですか?

ダダ漏れならバレますけど、じわっと漏らした程度なら別に言わなければバレないし、こっちも知りたくありません。

言わなければバレないことを、夫と子供の前でわざわざ言える神経がよくわからない。

たまに電車の中や駅のホームで、叫んだりひとり言を言っている人がいるじゃないですか?

中には通っている作業所の従業員証(?)のようなものを首から下げている人もいるので、おそらく知的障害のある方たちです。

彼らの、人々の視線に気づいてもいない様子や、自分の髪型や服装のことさえ自分で把握していない様子を見ると、知的障害者の方には失礼かもしれませんがいつも母のことを連想しました。

スカルノ大統領の第3夫人のデヴィ夫人が「結婚してから一番油断してはいけない相手は夫(夫の前では常に女性らしくあらなければならない)」という趣旨の発言をしていましたが、私はデヴィ夫人に尊敬の念すら覚えます↓